三昧について

【 三  昧 】

すべての宗教に共通するものであり、人間形成の基盤になるもの

 

1.三昧の解釈

 三昧とは、梵語のSamadhi を漢字に音写したもので、三摩地とも書かれ「正受」と意訳されている。
 三昧は、精神を集中して余念がないこと、一心不乱に物事をすること。
 精神集中が、方向性を示して動的なニュアンスを持っているのに対して三昧は、精神集中した状態を意味しており、禅門では深い意味があり、しかも、三昧に三つの意味があるとされています。

 

2.三つの三昧

2.1.正念の相続一貫

 これは、読書三昧というように使われている意味で、最も一般的な使われ方であります。
 禅門では、坐禅をして「数息観」をやりますが、「数息三昧」というように使われ、背筋を伸ばして坐禅を組み、静かに自分の息を一から百まで数える。その息を数えるという念慮以外には何も考えないで、息を数えることに三昧になることを修するのです。
 これは、興味のある本に引き込まれるように、一心不乱に読書三昧に成ることに比べ非常に難しいものがあります。
 それは、「考える葦」である人間が、意味のない「息を数える」ということ以外の念慮を、自分の意志により一次棚上げにして、それを継続するという、ある意味で無理(非自然)なことをするためであります。
 しかし、この非自然さを克復して身に付く、集中力・三昧力こそが、人間形成そのものであり、人間力の涵養につながるものであります。
 小学生から、体操とか持久走とかを体育として実修し、丈夫な体をつくるということをやっています。これと同じように、丈夫な心をつくるための実修が必要であり、それに最も適したものが、この「数息観」であり、「数息三昧」の実修なのであります。
 数息観における数息三昧は、息を数えようとする一念だけが生き生きと働き、それが切れ目なく一貫相続することです。これを正念の不断相続といい、精神状態として最も充実した状態といえます。
 この正念の不断相続の集中力が付くということは、社会的な活動において、極めて大きな力となります。すなわち、例えば、職場での仕事の成果は、この正念の不断相続の集中力にきわめて良く比例するということが出来ます。実社会での個人の仕事能力の差は、知能指数の差ではなく、この集中力の差であると云っても過言ではありません。何故なら、その人その人の持ち味、個性の十分なる発現には、この正念の不断相続の集中力なくしてはあり得ません。
 大学受験までの学校教育における偏差値にたいしても、知能指数が影響しないとはもうしませんが、勉強に向かう集中力の差の方が格段に大きいと考えております。生まれつきの性格において、一つの物事に打ち込む気質か、いろんなことに興味を発展させる気質かの違いがあり、集中力にも素質として違いがあります。しかし、これも体力と同じように教育し、訓練することによって、持って生まれた素質の違いを越えるものを身につけることは十分可能なものです。
 学校教育において、知能指数のテストはやりますが、知能指数を上げる教育訓練はしません。ただやみくもに、テストでの偏差値が上がるという目先の結果を求めて、勉強しろ勉強しろということになります。そこに、集中力を付けるという体力と並ぶ心の教育の座標軸が、明確に位置づけられていないために、単に知識の習得という結果だけが強調されている嫌いがあります。本来は逆であって、国語、理科、社会の教科を手段として、その勉強のプロセスが集中力をつける教育課程であると位置づけるべきと考えます。
 三つの意味を持つ三昧の中で、この最初の正念相続が、全体の基盤となる位置づけの三昧であります。三昧の最初であり、最後であるわけであります。いいかえますと、禅門での最初の修すべき入門の行であるとともに、法の淵源を極め仏祖の境涯に達した達道の行でもあります。

2.2.心境一如・物我不二

 二番目の三昧は、心境一如・物我不二であります。
 心境の「心」とは、自己・主体であり、「境」とは、自己以外のもの・客体を指すもので、主観と客観が一枚になることであります。
 心境一如とは、万物と我(自己)が一体という意味です。
 物我不二とは、これを言い換えたものですが、万物と我(自己)が別々ではなく、不二であるという意味です。
 この三昧が、宗教(仏教)の生粋の場面になります。
 お釈迦様の悟りの時の投機の偈として「山川草木悉皆成仏」「天地と我と同根、万物と我と一体」とあるように、まさに「見性」(悟り)には、この「心境一如・物我不二」の三昧に至ること無しには出来ません。
 科学、常識の合理性を越えた領域の場面であり、字面で、「心境一如、物我不二」を解釈しても届きません。本当の宗教の独壇場の場であり、これなくして宗教は成立しないものであります。
 数息三昧に即していいますと、息を数えている我と数える対象の息とが一体になり、不二にまでなった数息観であり、数息観法の中期以降の高いレベルのものであります。
 臨済宗系の禅門の修行においては、見性入理、見性悟道、見性了々と境涯に従っての公案がありますが、このいずれの公案においても最も大切なことは、公案と一体になるということであります。逆にいいますと、公案と一体に成らずして真正の見解は得られないし、境涯の進展はあり得ません。得てして類推とか字義についてまわっての解釈をしたりして、堂々巡りをしがちなわけですが、それは禅学であって本格の祖師禅の修行にはならないのであります。常に、公案と不二一如になることが修行の仕方として王道になるのであります。

2.3.正受にして不受

 正受とは、明鏡が物を映すように、そっくりそのまま受け入れるということであります。
 不受とは、明鏡の前から物がなくなれば、鏡には物は跡形もなく消えてしまうということであります。
 この三番目の三昧の意味は、正受であり且つ不受であるところの三昧という意味であります。
 数息三昧でいいますと、数息観をしているとき、カラスが鳴く、汽笛が鳴る、それを聞いたままで、聞くけれども鳴きやみ、鳴りおわるとそのまま聞こえなくなるだけで、数息観は淀みなく続く。また、目の前に蛾が飛んできて停まると、目に入り見える。しかし、只見るだけ。飛び立てば、視野からはずれて見えなくなるだけ。数息観は淀みなく続いている。何が聞こえても、何が見えても楚々まま写し取るように見えるが、全く邪魔にならないのであります。
 数息観でも後期の熟達のレベルであります。
 禅の著語に、この「正受にして不受」三昧を的確に歌った句があります。
「雁長空を過ぎて影寒水に沈む、雁に遺蹤の意なく水に沈影の心無し」
 
 また、社会生活においても、この三昧力は有効に働きます。近年、情報社会の中では、便利には成りましたが、極めて多岐にわたる情報が交錯して入り込んできますが、我々はそれに対応して行かねば生きて行けません。
 まさに、正受と不受をきちっと実践していなければ、仕事にならないし、そればかりでなく健康な精神を維持してゆくことも難しい時代なのであります。
 情報対応に止まらず、家庭生活、会社生活、様々な日常の生活の中で、場面は連続してどんどん変わって行くのですが、その主体の人間は替わらないので、その場面その場面、そこの役割・役柄毎に、この正受と不受を鮮やかに繰り返し使って行じねばなりません。
 それが鮮やかにきちっと行じられれば、随所に主となることが出来るが、それが中途半端な正受・不受になると、鮮やかな立ち居振る舞いが出来ないばかりか、精神的な疲れがどんどん蓄積してくることになる。
 現代社会で、精神的正常さを保持することは極めて難しい、人類史上経験のない時代であるといっても過言ではなく、意識的にそれに対する対応策を講ずる必要があります。
 まさに、かってのリクリエイションから始まって、最近の種々の癒し系が取り揃えられておりますが、根本的な対応は、この三昧を日常生活の上で行ずることであり、そのための一日一香の行の実習こそが、最も根本的な対応であることを多くの人に知らしめる必要があると考えます。
   
 以上、三昧に三種類の意味があり、それが一体となって本当の三昧があることを解説しましたが、実際に行じ、その難しさを長年の修練によって乗り越え熟成させなければ、その深い味わいは判らないものであります。

 

3.科学と宗教における三昧の位置づけ

3.1.科学と宗教の領域の違いと接点としての三昧

 三昧は、行であり、心の境地でありますから、科学では届かない領域になります。逆にいいますと、宗教には、この三昧というものなくして、宗教足り得ないし、三昧を経ずして宗教の領域に入って行くことは出来ません。坐禅をしっかり行じはない人は、禅僧とも禅者とも名付けるわけにいかないのであります。三昧を伴わない宗教は、宗教学であり、禅学であります。三昧を伴わないそれはまさに、科学の領域であり、それはそれで大切なものがあり、膨大な文化遺産もあり、学問体系もありますが、それは宗教ではありませんし、宗教者ではありません。

3.2.宗教の共通基盤としての三昧

(1)キリスト教における祈り

 マザー・テレサの祈りは、すごいものであり、坐禅と同じであると表された老師が居られました。
 スロバキヤ、ルーマニヤの正教系の教会での経験と聞いた話ですが、教会はまさに、祈り三昧を行ずる場であります。六百年前の教会が、創設当時とおそらく同じように、今も民衆の祈りの場としての拠り所になっているのに深く感動しました。
 二千年以上続いている世界宗教には、必ず何等かの方法での三昧行がその中心の命となって伝わっていることは間違いありません。そうでなければ、時代の中で消滅してしまっているはずであります。

(2)念仏における三昧

 鎌倉時代の中頃に、一遍上人という方が出て、時宗という念仏宗の一派を開きました。この一遍上人がまだ修行中、一生懸命に念仏を唱えて、念仏三昧になろうとしますが、なかなか納得のいく念仏三昧を行ずることが出来ません。口では一生懸命念仏を唱えていても雑念妄想で、念仏三昧に到らないのであります。そこで、当時夙に有名であった由良の法燈国師という禅の大宗匠の門をたたき、坐禅によって三昧力を養う修行を始めました。禅の雲水と一緒に本格の修行に精進を続け、ある日、念仏三昧の境地はこれだと、自分で納得できる境地に到ることが出来、それを一首の和歌にして国師に呈しました。

 『唱うれば仏も我も無かりけり 南無阿弥陀仏の声のみぞして』

 しかし、国師は、不十分であるとしてうけがわれませんでした。そこで、彼は退いて再び猛烈に坐禅に打ち込み、ついに坐禅三昧の玄旨を体得し、念仏三昧の妙境に到達することが出来たと納得し、また一首の和歌にまとめて国師に呈しました。

 『唱うれば仏も我も無かりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏』

 今度は、国師はこの見解を深くうけがい、彼が念仏三昧に徹底したことを証明されたのであります。そして、ここに念仏三昧を土台にした時宗が創立したのであります。
 前の歌がどうして不徹底で、後の歌がどうして徹底しているのかを味わえば、三昧というものが判りやすくなると思います。
 『南無阿弥陀仏の声のみぞして』というのでは、念仏している自己がおり、念仏を聞いている自己がまだおり、念仏する自己と唱える念仏とが別々で相対の場をまだ抜けきっておらず、本当の念仏三昧になっていないのであります。
 『南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏』となりますと念仏を唱える自己と唱えられる念仏とが不二一如となっており、本当の三昧境を現成し、真の念仏三昧の境地に体達していることが示されております。
 念仏の時は念仏三昧、数息観の時は数息三昧、作務をするときは作務三昧、祈るときは祈り三昧で、一点の雑念も一片の妄想もない、念々正念であることが真の三昧であります。 

(3)禅定三昧

 釈尊は初め、種々の難行苦行を修されたのち、最後にたどり着いて打ち込まれたのが、坐禅観法でした。菩提樹下において、禅定三昧に打入され、臘月八日の暁の明星を見て、有限相対な人間がそのまま無限絶対なもの足り得ることを大徹大悟されたのであります。これが仏教の基点であります。
 したがって、禅定三昧は、釈尊の悟りを生み、仏教の母胎になるわけであります。
 坐禅を組み、思念を切り捨て切り捨てて、まったく念慮が湧いて来なくなった状態が禅定三昧でありますが、数息観を徹底してもそこに到達できるし、公案になりきることによっても禅定三昧になれます。
 初則の公案である『父母未生以前における本来の面目』になりきって公案と自己とが不二一如になる禅定三昧に打入して、機に触れて、『父母未生以前における本来の面目』と「今ここに生身で息づいている自己」とが不二一如であることに如実に気づき納得するのが、禅の見性であります。
 禅定三昧を経ずして禅の参禅弁道はありえず、どの公案の則においても公案と不二一如になって禅定三昧に打入しなければ、境涯の進展はあり得ません。
 私は、後輩が見性を許されたら直ぐに注意をしてあげる事柄があります。見解を許されて後日になって、その許された見解の言葉とか形を頭の中の記憶から思い出しても、もうそれは見性の端的からは遠して遠しであること、やはり禅定三昧に入ってその境地に入ることなくして、その見性の端的を再認識することは出来ないものであること、したがって見性を許された今が非常に大切な時期であり、今、とにかくとことん座り込んで禅定三昧に浸り込んで、頭ではなく、足の裏にその実感を刷り込み染め込むようにしなさいよと、アドバイスしております。
 禅定三昧が、日常生活の正念の不断相続まで身に付いて行くのには、更に参ぜよ三十年でありますが、少なくとも一日一炷香を正直に行ずる積み重ねと摂心会での厳しい参禅弁道による研鑽で禅定三昧がだんだんと身に付いてくるものであります。これが本当の人間形成なのであります。

                              合掌