沿革・歴史

人間禅の歴史

  明治時代に、今北洪川禅師の指導の下、奥宮慥斎らが中心となって洪川和尚の意を呈して設立された両忘会は「在家の人々の禅の修行の必要性」を説く在家主義を標榜し、時代が下って大正時代には、洪川和尚の法を継いだ釈宗演老師の門下、釈宗活老師が両忘禅協会へと発展させ、更には戦後、昭和から平成に至るまで、釈宗活老師門下の立田英山老師を初代の総裁とする「人間禅」へと受け継がれました。

「人間禅」の名称は「人間形成の禅」を意味します。人間禅は旧来の封建的な体質を改め、なおかつ神秘や迷信を説かず、 各人がもっぱら禅の修行によって自己を鍛えあげ、人間として真実の味わい深い人生を生きることを目標としています。

※〔在家主義〕…禅寺等で修行をされる僧侶や雲水の方々を「出家者(或いは出家僧)」と呼び、我々一般社会で生活をし活動している人達を「在家者」と呼びます。 「在家主義」とは、この一般社会にあって禅の修行をしようとする人達に正規の禅の修行をさせようという試みです。

明治期からの歴史

蒼龍窟今北洪川老師と「両忘会」の発足

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 蒼龍窟今北洪川老師(1816-1892)は、幕末・明治時代を代表する臨済宗の禅僧でありました。もと儒学者であり、藤沢東垓の門に入って儒学を学び私塾を開かれましたが、『禅門宝訓』を読んだことが機縁となり、出家の思い止めがたく、25歳で相国寺の大拙承演のもとで得度されました。

 さらに、曹源寺の儀山和尚のもとに参じ、その印可を得られました。岩国の永興寺に住して、藩主のために『禅海一瀾』を著わし、後、鎌倉円覚寺の管長となり、寺内の雲水のみならず「世に人を得るためには寺院が門戸を閉ざしていてはならぬ」との考えから、広く一般大衆に対する禅の指導に力を注がれました。明治初頭の自由民権運動をリードした植木枝盛ら、当時の気鋭を門下から輩出している奥宮慥斎らの「両忘会」の活動を積極的に支援し、更には、その後の山岡鉄舟、高橋泥舟、鳥尾得庵、中江兆民、北条時敬らによる「両忘協会」にも老師自ら出向いて彼らの参禅を聞き、懇切な指導をしている。

山岡鉄舟 中江兆民 高橋泥舟

楞迦窟釈宗演老師時代の「両忘会」、「禅」を世界に発信

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 楞迦窟釈宗演老師(1860-1919)は、明治・大正期の臨済宗の僧で、洪川老師の法嗣(正統な法を継いだ人)であります。禅道修行のかたわら慶應義塾で福澤諭吉に英語、洋学を学ばれました。

 1887年、慶應義塾別科を卒業し、29歳の時に福澤諭吉や山岡鉄舟のすすめもあり、セイロン島とインド、中国等アジア各国に留学。その後円覚寺派管長を務め、明治26年、シカゴで開かれた万国宗教会議で禅(ZEN)についての講演を行い、欧米に禅を紹介されました。宗演老師は、建長寺派管長も併任され、鈴木大拙や夏目漱石も参禅するなど多くの在家の参禅者がおり、薫陶を受けたのでした。日本人の僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として、よく知られています。

夏目漱石

両忘庵釈宗活老師と在家禅「両忘協会」の発足、そして全国に支部設立

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 両忘庵釈宗活老師(1871-1954)は、はじめ鎌倉円覚寺の今北洪川に参じ、石仏居士と号され、23歳で釈宗演につき得度(出家して僧や尼になること)されました。 明治35年に洪川老師の法嗣である釈宗演老師より大事了畢(臨済宗における全ての公案を透過すること)、両忘庵の庵号を授かり、宗演老師の命により、一事活動を停止していた「両忘協会」を再興し、東京谷中にて両忘協会を継承されました。

 明治39年には渡米され、サンフランシスコのポスト街にて両忘会道場を開き、提唱参禅会を実施し、アメリカで禅をひろめられました。帰国後は大正4年に、日暮里駅の谷中墓地側に両忘協会のために、田中大綱居士が、居士専門の禅道場を建築して寄付され、それが「擇木(たくぼく)道場」と名付けられ、宗派に属さないわが国初めての居士禅の専門道場として全国に知られ、大正14年には「財団法人・両忘協会」の認可も受けて、社会教化団体のひとつとして居士禅を全国に広めるその中心的役割を担う道場に発展しました。

 擇木道場は「両忘会」、「両忘協会(昭和15年に「両忘禅協会」に名称変更)」の本部道場として、若き日の平塚らいてう(慧薫禅子)をはじめ、後に人間禅総裁となった耕雲庵立田英山老大師、現在、ニューヨークを中心に活動している「アメリカ第一禅堂」の礎を築かれた曹渓庵佐々木指月老師、東京高等師範学校の倫理学教授、文部省教学官などを歴任し、幾多の学生たちを禅に導かれ、後年93歳まで毎夏ドイツへ坐禅指導の行脚に出られた長屋哲翁居士など、大正から昭和にかけて日本の禅界だけでなく外国でも活躍された多くの人材を輩出しており、現在も人間禅東京支部として活発に活動しております。

平塚らいてう

耕雲庵立田英山老師と「人間禅」、戦後に継承発展

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 耕雲庵立田英山老師(1893~1979)は、 第二高等学校時代に松島瑞巌寺の盤龍和尚に参禅し見性。東京帝国大学理学部時代は釈宗活老師に入門し、その後、大事了畢、耕雲庵の庵号を授かる。 中央大学予科教授、日本医科大学予科教授でもありました。

 昭和24年に両忘禅協会は発展的に解散し、立田英山老師を総裁として「人間禅」となりました。戦後の民主主義にふさわしく、運営面も新たに会費制度や会規を定め、性別や社会的立場を超えて、誰にでも開かれた禅道場を作ろうという理想のもとに、立田英山老師の後、総裁は妙峰庵佐瀬孤唱老師(経営コンサルタント)、磨甎庵白田劫石老師(千葉大学名誉教授)、青嶂庵荒木古幹老師(精神科医)、葆光庵丸川春潭老師(中国 東北大学名誉教授)と受け継がれました。

【1】 第一世総裁 耕雲庵立田英山老大師
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明治26年
東京市本所区に生まれる。
明治39年
仙台第二高等学校入学。
  45年
仙台・北山東昌寺の摂心会(松島・瑞巌寺 盤龍老師)に初めて参加。
大正3年
盤龍老師について見性
  4年
東京帝国大学理学部動物学科入学。
  5年
両忘庵釈宗活老師に相見し入門。「英山」の道号を授与される。
  8年
東京帝国大学卒業。大学院に進み「脊椎動物の脳の発生」を研究。
  9年
志願兵にて習志野野砲連隊に1年間入営。
  10年
中央大学予科教授に就任。
  12年
「耕雲庵」の庵号を授与される。
昭和3年
師家分上に補される。
  9年
日本歯科大学教授に就任。
  15年
宗教結社「両忘禅協会」が発足しその代表者に就任。
  16年
日本歯科大学教授を依願退職。
  19年
中央大学予科教授を依願退職。
  21年
宗教結社「両忘禅協会」と財団法人「両忘協会」を合併し宗教法人「両忘禅協会」が設立され、その主管者に就任。
  24年
宗教法人「両忘禅協会」を戦後新たに宗教法人「人間禅教団」に改組し、推されて初代総裁に就任。
  44年
総裁を妙峰庵佐瀬孤唱老師(第二世総裁)に委嘱され、名誉総裁となる。
  50年
師家を辞任し、隠居される。
  54年
帰寂。世寿85歳。
【2】第二世総裁 妙峰庵佐瀬孤唱老師
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大正3年
台湾に生まれる。
昭和11年
中央大学法学部英法科に入学。
  12年
中央大学五葉会に入会。両忘庵釈宗活老師に入門を許される。
  13年
「孤唱」の道号を授与される。
  13年
中央大学卒業。南満州太興合名会社に入社。
  15年
応召。
  21年
中国より復員。戦後各社の役員を歴任の後、経営コンサルタントとして活躍。
  24年
人間禅教団に入団。
  35年
人間禅教団内に五葉塾を設立し、初代塾頭に就任。
  40年
「妙峰庵」の庵号を授与される。
  42年
師家分上に印可される。
  44年
人間禅教団・第二世総裁に就任。
  51年
帰寂。
【3】第三世総裁 磨甎庵白田劫石老師
磨甎庵老師.jpg
大正4年
東京に生まれる。
昭和7年
東京帝国大学 和辻哲郎教授の下で哲学を学ぶ。
  10年
耕雲庵立田英山老師の公演を契機として禅の修行を始める。
  12年
耕雲庵立田英山老師に入門。
  13年
帝大卒業後、文部省に入省。
  15年
「劫石」の道号を授与される。
  24年
新制千葉大学の発足と共に文学部助教授就任。住まいを人間禅・市川本部道場に移し、人間禅教団発足に尽力。
  29年
「磨甎庵」の庵号を授与される。
  47年
千葉大学・人文学部長に就任。
  52年
人間禅教団・第三世総裁に就任。
  56年
千葉大学定年退職と共に千葉大名誉教授に就任。
平成8年
人間禅総裁を退任し名誉総裁となる。
  21年
帰寂。
【4】第四世総裁 青嶂庵荒木古幹老師
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大正14年
岡山県倉敷市に生れる(旧姓「内藤」)。
昭和18年
陸軍予科士官学校入学。
  20年
熊本医科大学入学。
  24年
人間禅教団熊本支部創立に参画、耕雲庵英山老大師に入門。
  25年
熊本大学医学部卒業、精神科入局。
  25年
「古幹」の道号授与される。
  29年
熊本県立精神科病院勤務。
  35年
医学博士。
  36年
医療法人再生会内藤病院(精神神経科)を開設、理事長・院長となる。
  39年
内藤病院増床(211床)。
  49年
「青嶂庵」の庵号を授与される。社会福祉法人白日会を設立、理事長となる。
  61年
熊本県精神病院協議会々長就任(後に名誉会長になる)。
平成8年
人間禅教団・第四世総裁就任。
  10年
病院長を長男と交代、理事長専任となる。
  10年
日本精神神経学会の精神科専門医認定。病院名変更「くまもと心療病院」に。
  18年
総裁辞任、名誉総裁に就任。
  19年
帰寂。
【5】第五世総裁 葆光庵丸川春潭老師
葆光庵丸川春潭老師(総裁絡子).JPG
昭和15年
岡山県岡山市に生まれる。
  34年
耕雲庵立田英山老師に入門。
  35年
「春潭」の道号授与される。
  38年
大阪大学理学部化学科卒業。住友金属工業株式会社和歌山製作所入社。
  57年
東北大学工学部工学博士。
  63年
坂東支部設立。支部長就任。
平成4年
住友金属工業株式会社 総合技術研究所上席研究主幹。
  5年
「葆光庵」の庵号を授与される。
  8年
(中国)北京大学客座教授。 (中国)鋼鉄研究総院技術顧問。
  9年
日本鉄鋼協会理事。
  10年
(中国)東北大学名誉教授。
  17年
師家分上印可授与。
  18年
人間禅教団・第五世総裁就任。
令和元年
総裁辞任、名誉総裁に就任。
【6】第六世総裁 千鈞庵佐瀬霞山老師
千鈞庵佐瀬霞山老師.JPG
昭和24年
北海道夕張に生まれる。3歳で千葉県松戸市に移住。
  31年
人間禅付属宏道会で剣道を始め、小川忠太郎師範(無得庵小川刀耕老居士、 剣道模範士九段、警視庁名誉師範)に師事。
  39年
妙峰庵孤唱老師に入門。
  44年
「霞山」の道号授与される。
  46年
流通経済大学経済学部卒業。
  47年
株式会社平田倉庫に勤務後、木場の材木問屋株式会社京守に勤務。
  55年
株式会社岸本建設を設立、常務取締役に就任。建設業に携わる。
平成14年
宏道会第四代会長に就任。
  17年
宏道会長野拓郎師範(寶鏡庵長野善光老師)より小野派一刀流免許皆伝を 允許、師範に就任。
  18年
人間禅総務長に就任。
  20年
「千鈞庵」の庵号を授与される。
  23年
師家分上印可授与。
  24年
一般社団法人耕雲塾(KUJ)代表理事に就任。
令和元年
人間禅第六世総裁に就任。現在に至る。

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