四国座禅道場 イベント案内

 

200503110802-5eae27826eae4.jpg

 

イベント案内

2020年度摂心会予定

 第168回 期日 令和2年 9月18日~令和2年 9月 22日

 第169回 期日 令和2年11月25日~令和2年11月29日  

 第170回 期日 令和3年 2月 19日~令和3年2月 23日 

 

 場所 四国座禅道場  

 担当師家 竜穏庵光蓮老師

 

40年続いている餅つきを令和2年年末に行いました。

令和3年1月3日には、本年の感染症終息を願い、本部茶道部より送っていただいた青竹の茶道具にて初釜を行いました。

餅つき.jpg

 

 初釜R3.JPG

令和3年1月11日(火) 中国四国新年互例会 年頭垂示

於:人間禅岡山支部道場

 

竜穏庵老師

 

 ただいま総裁老師の年頭のご垂示がありまして、人間禅全体に対する細かい工夫されたことを言われました。私は「一年の計は元旦にあり」というふうに昔からいわれておりますが、正月に何かを決めたり、したことは今までほとんどございませんでした。

自分自身が果たしてどうかなということを今年は考えてみまして、人間禅全体のことでなしに私自身のことについてちょっとお話したいと思います。

私が好きな言葉のなかに「無心於事(むしんおじ)無事於心(ぶじおしん)」というのがあります。これは徳山和尚ですね、棒使いの名人で、

「道(い)い得るも三十棒、道い得ざるも三十棒」、「速かに道え、速かに道え」。

言うた者も三十棒、言わない者も三十棒も食らわしたという恐ろしい和尚ですが、その和尚がどうも私の感じでは晩年になって角が取れて言われた言葉じゃないかなーと思いますが、「無心於事」というのは事において無心。「無事於心」というのは心において無事。事において無心と事をやるときは無心でやる、それで心の中はもう波風が立たない。そういうふうな無事ということと無心ということについて修行者に言われた言葉を思いまして、それを無心ということと無事ということを二つ、裏と表にかみ合わせて実践してみようかなと。

 なかなかこれは容易にできることではございませんけれども、それを突き詰めていったら、念念正念(ねんねんしょうねん)歩歩如是(ほほにょぜ)というところに行くと思います。これはとても実践は難しいことですけれども、それを心がけていきたいと思います。皆さんのご参考になればと思いお話をしました、以上でございます。

 

 

葆光庵老師

 

昔、臨済宗の師家である一休禅師が有名な方で漫画の方の一休さんです。この一休さんがお正月のときに髑髏(しゃれこうべ)を杖の上につけて京都を歩く。会う人会う人ごとに髑髏になるんだということを突きつけて、お正月にですよ、お正月にそれをやったという事実があります。

これはですね、なにを言おうとしているのかというのを私なりに考えてみました。人間は考える葦であるということであります。自分が健康なときに死というものを考えて不安になる。動物はですね、人間以外の動物は死の直前までですね、死というものを考えない。そこに決定的な違いがあるわけです。20万年前にホモサピエンスが誕生して、おそらくその時点からですね、人間は考えるが故に死滅するということ、近しいものと死別するということ、あるいは自分が死んでなくなってしまうということに対する不安と疑問とをずーっと持ち続けてきたものと思います。御釈迦さんにしてもそうなんですが、20万年ずーっと悩み続けた。そして197500年経ってですね、すなわちホモサピエンスが誕生してから90数パーセント、年来ずーっと悩み続けた最後のこの2500年前に老子が、孔子が、釈迦牟尼が、キリストが、そういう人たちが死に対する決定的な見解(けんかい)を持つことができた。はじめて死というものを、死別するということを、生と死の問題について根本的な解答をつかむことができた。これは人間の歴史の中で最も特筆すべきことだと思います。

人間は必ず死ななければならない。たかだか100歳。そして自分の死ということもさることながら、長年連れ添った伴侶との死別もありますし、子どもとの死別もありますし、いろんな別れというものがあるわけです。決定的なのは自分がこの世から消えてなくなる。すなわち、老子をはじめとする先覚者たちにそれに対する根本的な解(かい)をつかんで、そして世界宗教というものに今日まできておるわけです。

現代人のほとんどは死というものから目をそらすか、死というものを先送りするか、とにかく真正面に据えて悩まない。どのみち年を取れば取るほど死というものに近くなって、そしてやっとという人もおるかもしれない。

若いときに死というものを真正面に据えて悩むというのは最も人間らしい人間だというふうに思います。それが人間である証拠であるし、その悩みがあるからこそ本当のものをつかむというドライビング方式になるわけです。事実、先覚者はそれをやったのです。まさに我々は、我々の人間形成の禅というのは「正しく死ぬる」ということをしっかりと生きている間につかむ。それが人間形成の禅の根本であります。「正しく死ぬる」、死に直面したときに正しく対処することができるかどうか。生と死の問題をしっかりと根本から見据え、それを正しく見る、それを先覚者の導きにおいて我々は御釈迦さんの悟りというものを法追体験することによって、それを自分の我がものとすることができるわけです。

「正しく死ぬ」ということができないで、「正しく生きる」ということはできないです。そこがまた在家禅のすばらしいところで、「正しく死ぬる」ということをしっかりと押さえながら「正しく生きる」、この世の中で「正しく生きる」、限られた生というものをしっかりと生きる、これが人間形成の禅であります。

年頭にあたってですね、いつもこういうことを考えるわけにはいきませんけれども、年頭にあたって、自分は「正しく死ぬる」、いうことができるかどうかをしっかりともう一度反省してみるとともに、それが納得し得たならば、一人でも多くの最も人間らしい人間の人たちに対して、我々はそれを根本的に解決するものを提示することができるように、一緒にその、みんなそれをつかんで、それが本当にそれをしっかりつかむということが、全人類がそれをつかむということが世界楽土になるわけです。そのことを年頭にあたってですね、見定めていただきたいと思います。

まあ年に一度はですね、そういう根本のところということでお話申し上げました。もう少し具体的な実践的なことで申し上げますと、先程拝読した立教の主旨の第二段目に「坐禅の修行によって、転迷開悟の実を挙げ」、これが先程の話した「正しく死ぬる」という根本的なキーになるところですけれど、「坐禅の修行によって、転迷開悟の実を挙げ、仏祖の慧命を永遠に進展せしめる」、この「仏祖の慧命を永遠に進展せしめる」という二段目のことはですね、これが途絶えたら第一段を推し進めることはできません。人間禅というものもなくなるし、本当に正しく死というものを乗り越えて、正しく死ぬということをしっかりと伝承していくことができなかったら誰かがいうふうに無責任になんとなく放っているのが、まあ私もそうですけど、しかし自分がやるんだと、この「仏祖の慧命を永遠に進展せしめる」ということも一人ひとりが、そしてこの中国そして四国において、この中国支部は今まで4人の方が伝法、嗣法された方が4人輩出されています。四国は3名ですかね。こういう赫々(かくかく)たる先輩の歴史を引き続いて、この四国支部、「仏祖の慧命を永遠に進展せしめる」いうこと、これを年に一度、正月にあって人ごとではない、自分がということでとらえていただきたい。 

長くなりましたが一日一炷香、これはやっぱり一番基本です。これをしっかり、これを最近では月に一回はこれについて私は私の話をして、そしてコメントをつけて日進月歩するように一日一炷香で精彩をつけてこの一年をしっかり有意義に過ごしていただきたいと思います。ハイ▲ページトップに戻るボタン.gif