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新潟禅会 短信Niigata

短信Niigata

  先日、座禅会の後の読書会で、仕事と人間形成の関係について書かれた文章を輪読しました。「(仕事は)知識も要るし、技能も要るが、人格面での充実がどうしても大きな要素になってくる。(中略)しかし人格形成(人間形成)は他からの指示によって進むものではなく、「自覚」に基づいた自己教育によるほかはない。」これを読んで私が真っ先に思い浮かべたのは、自分より若い世代の職場の仲間とのギャップでした。昭和的な職業意識が“正しいこと”だと刷り込まれている私からすると、権利意識も高く全体よりも個人を尊重する考え方は、つい批判的に映ってしまう。輪読した文章に引き付けて言えば「後輩にも『人間形成』を育てたいところだが、“自覚による自己教育しかない”と言われてしまうと、さて人間形成とはどうしらいいものか?」と考えあぐねてしまったのです。

 確かに私が受けてきた滅私奉公的な昭和の帰属意識は明らかに弊害が大きく、素朴な人間の感情を疎外してきたのは事実です。しかしかといって昨今の、何でもハラスメントと言えば被害者になれる風潮や、退職代行サービスでいきなり今日から職場放棄することすらも“労働者の権利”とされる考え方も、何か不自然さを感じさせてむしろ本人が生きづらくなるのではという懸念を感じさせます。

 老子の言葉にこんなものがあります。「道は自然に法る(みちはしぜんにのっとる)」。【解説】すべては自然にのっとっている。草木の生えるのも自然であり、春夏秋冬の移り変わるのも自然である。人間の踏み行うべき道も、やはりこの自然にのっとるのが最もいい。

 昭和的な生き方も、令和的な生き方も、どちらも“何か違う”と感じる。これが“自然に法っていない”ということなのではないかと私は思います。春になれば雪は溶けて川になり低きに流れて、花は「今日から春だ」なんて言われなくても必ず自然に開花します。「川が下るのも、花が咲くのもおかしい!」なんて言う人はいません。誰が決めたのでもなく自然の理であり、それが「当たり前」。そして人間も自然の一部なのですからそんなことを言う人がいたら不自然さを感じます。

  私にはまだ、職場の問題のように『自然』な姿とはどういうものか具体的には分かっていないことが多々あります。しかし誰もが『何かおかしい』と感じる、その言葉にならない心の動きこそ『道は自然に法る』の“自然”ではないでしょうか。昔からの智慧にはきっと現代にも通じる真理が宿っていることと思います。座禅はそういった古来の智慧を背骨に現代まで続いている修養です。静かに座る時間は“あるがまま”という自然に回帰できる時間です。「何かおかしい」という思いに疲れた時は、すぐに答えは出ないかも知れませんが座禅でその苦しさを放下して今ここ、あるがままになって下さい。「自然」はあるがまま。白一色でも黒一色でもないのですから。(2026.9.27 麗月)

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 謙虚で真面目な性格の人ほど自分を振り返り反省をします。それはもちろん誠実さの表れであり素晴らしいことです。しかしそれが行き過ぎると感情が疲弊してうつ症状のきっかけになりかねないなど、医学的な見地からは必ずしも好ましくない面もあるということは周知かと思います。本来は自分をよりよく高めていこうとする良い行為なのになぜ却って元気をなくしてしまうのでしょうか?

 「なぜ人は目で物を見ることが出来るのか?」昔の思想家はこう考えました。「それは人の目の奥に小人が居て、その小人が見ているからだ」と。この論理がおかしいことは誰でも気がつきます。“では、その小人の目はどうやって物を見ているの?”という疑問が依然解決されないからです。

「自分で自分を反省する」というのはこれに似ていると私は感じます。反省すべきことをやったのは自分であり、それを振り返っているのも自分。同じ自分なのに、「自己反省」の意識の時には自分が自分を対象化しているのです。過去の自分を捉えて反省している現在の自分は、明日になればまた「明日の自分」から見た反省の対象になるでしょう。つまりどこまで行っても「自分」を捉えたことにならないのです。客体化は世界を比較可能にする思考であり科学の出発点ですが、反面どうやっても「主体」を完全に客体として捉えることには原理的な限界があります。「自己反省」が行き過ぎると苦しいのは、このループでどこまで真剣に追及しても「自分」を捉えられないことから来る疲れなのではないかと思います。

 禅の世界観はそれとは異なっています。禅は世界を「万法一如」「自他不二」と捉えます。自分と他人は違う存在だが同時に同じであるというのが自他不二であり、それは自分自身についても同様で、過去の自分を今の自分とは違う存在のように批判することの一面性を考えさせます。そして時についても、今は次の一瞬には過去になり、直前の未来が今になる。今と過去/未来の区別も有りながら無く、常に「今」です。従って「今」の自分が「過去」の自分を切り離して、高みに立って批判の対象にするということも禅の世界観とはそぐいません。

 では禅者は自分に対して無反省なのか?いいえ、もちろんそうではありません。ではどうやって禅者は自分を振り返るのか?それは心の微細な動きを見逃さないことだと思います。座禅の最中でも自分のことを考えて「ああ馬鹿だった!」などと心が騒ぐことがあります。しかし「馬鹿だった!」と気づきがっかりしたその瞬間はもう過去です。そこで「なんで私はあの時・・」などと振り返り始めたら、過去に捉われたその瞬間から自分の客体化が始まります。自分は今いまの連続の瞬間、この自分しかいないのです。「馬鹿だった!」と気づいた次の瞬間にはその思いは放下し「今座っている自分」になりきればいい。次の瞬間には立て直した自分が居る、それでいいのです。この「今」になり切っている連続、これが「自分」を捉えているということでないかと私は思います。

  誠実で真面目にいきているからこそ疲れている方は沢山いらっしゃることと思います。どうぞ座禅によって、「今ここの自分が全てだ」と感じられる安堵感を経験していただきたいと思います。(2026.9.19 麗月)

                     

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