新潟禅会 短信Niigata
短信Niigata
私はある禅寺のHPに掲載されるご住職のコラムを愛読しています。先日そこにこんなことが書かれていました。「自分を忘れるとは『清水の舞台から飛び降りる』という表現がぴったりだ」と。「なるほど、上手いことを言うなぁ」と頷きました。
例えば高層ホテルの最上階の部屋で火事に遭遇し、逃げ場なく窓から飛び降りるしかない場合、「怖い」「怪我したら痛そう」などといつまでも躊躇っていられるでしょうか?いろいろな思いがありながらも、「えいやっ!」と意を決して飛び降りる瞬間はきっと後先の不安も放擲し、全てを運に任せて身を空中に預けることでしょう。これが「自分を忘れる」という感覚だというのです。
幸い私はそんな恐ろしい目に遭ったことはありません。ですから決して偉そうなことは言えないのですが、そこまでではもちろんないものの日常生活の中で『自分を忘れる』ように努めようとすると、ある意味確かに“えいやっ!”と怖さを振り切ってその時々の縁に身を任せるような思い切りが必要だと感じます。
例えば職場で仕事三昧になろうとします。仕事三昧になりきろうとしたら、他人の目なんて気になるでしょうか。人にどう見られるかなんて、そもそも一心に仕事に向かっていたら他人や自分を意識する暇もないでしょう。時には「ここで他人にどう思われようと気にせず仕事する!」と思い切って振り切る勇気も三昧には必要かも知れません。
「周りを無視して傍若無人になれ」と言っている訳ではありません。ただ、本当に「自分すら忘れる」ような三昧に入るには、世間的な良し悪しや表面的な評価などは二の次になることもあるのではないでしょうか。「自分を忘れる」ということが「清水の舞台から飛び降りるような」感覚だというのは、事になりきって自由になるにはそれくらいの真剣さが必要だということでしょう。
気遣いが大切な現代では、周囲のことすら脇へ置く、そういった一途さは眉をひそめる向きもあるかも知れません。しかし一方では「優しさ」や「気遣い」と言った美句が独り歩きし、あるがままでいられない窮屈さを感じている人が多いような気がします。
周りからどう見られるのかの視点を手放すのが怖いかも知れません。でも時には「他人の目も自分自身のことも忘れて三昧になる」という身勝手で自由な時間を持つことも必要ではないでしょうか。座禅はそれが堂々と出来る時間です。人の中で生きることに疲れた時には是非座禅を組みにいらしてください。(2026.10.3 麗月)
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先日、座禅会の後の読書会で、仕事と人間形成の関係について書かれた文章を輪読しました。「(仕事は)知識も要るし、技能も要るが、人格面での充実がどうしても大きな要素になってくる。(中略)しかし人格形成(人間形成)は他からの指示によって進むものではなく、「自覚」に基づいた自己教育によるほかはない。」これを読んで私が真っ先に思い浮かべたのは、自分より若い世代の職場の仲間とのギャップでした。昭和的な職業意識が“正しいこと”だと刷り込まれている私からすると、権利意識も高く全体よりも個人を尊重する考え方は、つい批判的に映ってしまう。輪読した文章に引き付けて言えば「後輩にも『人間形成』を育てたいところだが、“自覚による自己教育しかない”と言われてしまうと、さて人間形成とはどうしらいいものか?」と考えあぐねてしまったのです。
確かに私が受けてきた滅私奉公的な昭和の帰属意識は明らかに弊害が大きく、素朴な人間の感情を疎外してきたのは事実です。しかしかといって昨今の、何でもハラスメントと言えば被害者になれる風潮や、退職代行サービスでいきなり今日から職場放棄することすらも“労働者の権利”とされる考え方も、何か不自然さを感じさせてむしろ本人が生きづらくなるのではという懸念を感じさせます。
老子の言葉にこんなものがあります。「道は自然に法る(みちはしぜんにのっとる)」。【解説】すべては自然にのっとっている。草木の生えるのも自然であり、春夏秋冬の移り変わるのも自然である。人間の踏み行うべき道も、やはりこの自然にのっとるのが最もいい。
昭和的な生き方も、令和的な生き方も、どちらも“何か違う”と感じる。これが“自然に法っていない”ということなのではないかと私は思います。春になれば雪は溶けて川になり低きに流れて、花は「今日から春だ」なんて言われなくても必ず自然に開花します。「川が下るのも、花が咲くのもおかしい!」なんて言う人はいません。誰が決めたのでもなく自然の理であり、それが「当たり前」。そして人間も自然の一部なのですからそんなことを言う人がいたら不自然さを感じます。
私にはまだ、職場の問題のように『自然』な姿とはどういうものか具体的には分かっていないことが多々あります。しかし誰もが『何かおかしい』と感じる、その言葉にならない心の動きこそ『道は自然に法る』の“自然”ではないでしょうか。昔からの智慧にはきっと現代にも通じる真理が宿っていることと思います。座禅はそういった古来の智慧を背骨に現代まで続いている修養です。静かに座る時間は“あるがまま”という自然に回帰できる時間です。「何かおかしい」という思いに疲れた時は、すぐに答えは出ないかも知れませんが座禅でその苦しさを放下して今ここ、あるがままになって下さい。「自然」はあるがまま。白一色でも黒一色でもないのですから。(2026.9.27 麗月)
