よくある質問

 

 

よくある質問

坐禅をしたことがない初心者なんですが、大丈夫でしょうか?

最初は誰でも初心者ですから、大丈夫です。

初めての方は、日曜座禅会が参加しやすいと思います。

1回だけの見学・体験などは可能ですか

かまいません。でもせっかくですから、少しでも坐ってみてその良さを味わってください。

また老師に参禅できる参禅体験も行っているので、詳しくは道場にお問い合わせください。

誰でも参加できますか?

もちろんです。年齢・性別・国籍・宗教などの参加制限は一切ありません。

海外の方もいらっしゃいますし、キリスト教の方が、坐禅をすることで、信仰を深めている例もあるほどです。

どのような方が参加していますか?

一般のいろいろな方が参加しています。会社員、先生、医師、農業従事者、定年退職者、主婦もいます。たまに、学生も来ます。

余談ですが、学生時代に坐禅を始めるのは特に意義深いです。
理由として、学生時代は「自分が何に向かってどう生きていくべきなのか?」「自分は一体何なのか?」を強く考える時期であり、比較的時間と自由があるこの時期に、これら「自分の軸」を確立しておくことは、本当に重要だからです。

費用はどのくらいかかりますか?

日曜座禅会への参加だけであれば、毎回300円です。
摂心会(本格的禅の会)の参加は、参加費;1日300円、食費;1食300円です。

入会金や月謝のようなものはありません。

申し込み方法やキャンセルはどうすればいいのでしょうか?

日曜座禅会の場合、特に予約や申し込みは不要です。

時間までに来て頂ければ、そのままお座りになれます。
玄関のところに名簿があるので、氏名をご記入ください。

摂心会の場合、お食事をされる時には、お申込みをお願いいたします。

申し込みは、このホームページから申し込んで頂ければ、後ほど担当者より返信申し上げます。申し込みされた場合は、キャンセルされる時も連絡して頂ければありがたいと思います。

どんな服装で行けば良いのでしょうか

よく来られる方や、本格的に座禅修行している方は、着物と袴や作務衣を着ていますが、だらしの無い格好でなければジーンズやジャージなど普段着でかまいません。

ですが生地の硬いジーンズの場合は、血行が悪くなって足が痛くなる傾向があります。
締め付けるところが無いゆったりしたものが理想的です。

女性はロングスカート、またはスラックスなどが適当です。足を組むので短いスカートは避けてください。裸足になりたい方はストッキングはやめたほうがいいでしょう。

冬の道場は、はっきり言って寒いです。厚手の上着か、ジャンパーなどを禅堂に持ち込んでもかまいませんのでご自分で調整してください。

着替えるための部屋もありますので、ご利用ください。

必要なものはありますか?

費用は毎回300円を頂いておりますが、それ以外は特に何も必要ありません。

ただし心にはゆとりを持っておでかけください。

坐禅に必要な座布団や椅子もあります(my座布団がいい方はお持ちください)。

道場での注意事項は?

1.禅堂は、坐禅の修行を行う大切な場です。
  「黙堂」とも言われます。

  必要なこと以外の「私語」は固く禁じられています。
  勝手な行動も禁じられています。

2.携帯電話、腕時計のアラームなどはあらかじめ切っておいてください。

3.電気、水、ガスなどの節約に努めてください。

4.禅堂での作法は、周りの人にならってください。

警策でみんな打たれるのでしょうか?

警策(臨済宗ではけいさく、曹洞宗ではきょうさくと読む)は、修行者を励ます意味で叩くものです。決して罰だとか恥ずかしいものだと思わないでください。

助警(じょけい 警策を持った人)が廻ってきた時に希望があれば、叩いてもらいます。
無理やり叩かれることはありません。

眠くなってどうしようもない時は、叩いてもらうと目が覚めますし、気合を入れたい時も叩いてもらうといいですよ。叩かれた瞬間、痛いだけですぐに痛みは消えます。


警策の作法はお寺によって細かく違いますが、人間禅の場合は以下のようになります。

希望される場合は、助警が廻ってきて、目の前にきたところで合掌してください。

助警が合掌するのに合わせて、こちらも合掌します。
(よろしくお願いしますの意味がある)

足を組んで座ったままで、上体を前に下ろして、背中を見せ、叩かれやすい姿勢を取ります。
頭は当たると危ないので、低くしてください。

助警が背中を左右3回づつ叩きます。
狙いが狂わないよう、叩かれても動かないでください。

終わったら上体を起こして合掌し、手を坐禅の形に戻します。

眠くなったらどうすればいいでしょうか?

本来、坐禅は身体が疲れている時は避けたほうがいいのですが。

眠くなってきたら、助警(じょけい 警策を持っている人)が、廻ってきたら打ってもらうと眠気が覚めます。

足が痛くて坐禅が続きませんが?

最初、坐禅で足が痛くなるのは仕方ありませんが、2,3ヶ月も続けているとだんだん足が慣れてきます。

それまで、イス禅も併用しながら、禅を続けていくと良いのではないでしょうか?

足が痛くなったら、どうすればよいのでしょうか

合掌して足を組み替えてみてください。

それでもどうしても痛い時は、静かに立ち上がってください。
その際、手は、叉手当胸(さしゅとうきょう 胸の前で掌を重ねる)にしてください。

痛くなくなったら、また坐って合掌し坐禅を続けます。

足が組めない方、痛めている方は、正座でも、イス禅をしてもかまいません。

数息観がなかなかできませんが?
数息観は息を数えるだけなので、簡単そうに見えますが、実際にやってみると雑念にとらわれて、数を忘れてしまったりします。

最初は、1ができたら、2を目標、2ができたら、3を目標というように段階的に修行していくといいでしょう。

100まで自在に数えられるようになったら、100、99、98と逆に数えたり、素数だけを数える(これは無理があるかも?)方法もあります。


以下、耕雲庵立田英山(こううんあん たつたえいざん)著 「数息観のすすめ」より抜粋しますので参考にしてください。

a . 勘定を間違えないこと
b . 雑念を交えないこと
c . 以上二条件に反したら1 に戻すことの三つです。

前期の間は、そう厳格にこの三条件を振り回したら、自己嫌悪におちいって、数息観をするのが嫌になってしまいますから、或る程度のミスは黙殺することにします。黙殺といっても余りひどいのはいけませんが、7 9の次にうっかり5 0と数えてしまったのや、足が痛くなったから、こんど1 0 0 まで数えたら止めようと思う位は、まァ黙認しておこうというものです。

もっとも黙認にも階梯があることで、最初の1 0 0 までは余りやかましく言わず、次の1 0 0 はやや条件を厳しくし、さらに次の1 0 0 を数えている時はなるべく条件を厳守して、数え直しをやるようにするとよいです。それでもある程度の黙認をやらないと、なかなか1 0 0を3回、つまり3 0 0まで数えることはできないものです。

ですから線香が一本燃え終わったら、数にかかわらず、その日はそれで止めることにでもしないと疲れ過ぎます。最初のうちは余り無理せん方が長つづきします。どうせ完全に数息観ができるなんて、半年や一年の修練では望めないことなのですから、あまり気をおとさずに、細くとも長くつづけることが肝心です。

 

どのくらいの時間坐っているのですか

正式には45分が1回の基本の時間ですが、初心者が多い場合には、25分くらいで一度休憩を入れることがあります。

途中でトイレが我慢できなくなったら、どうすればよいのでしょうか?

合掌して静かに立ち上がります。

中央の通るところに出て、道場の前 仏壇の掛け軸に合掌します。

その後、道場の後ろにいる聖持(しょうじ)のところへ行き、座って合掌します。
(これは退場の許可を得る意味がある)

聖持が合掌して許可をくれるので、そのまま退場します。

再度入場する時は、逆の動作をしてください。

いわゆる禅問答のようなことはするのでしょうか?

公案(問題)といわれる禅問答は、本格的に入門した修行者が摂心会(せっしんえ 道場に泊り込みで坐禅する修行)などで、老師(禅の指導者)に参禅(公案への自己の考えを呈する)して行われるもので、一般の坐禅会では行いません。

坐禅の他にはどんな事をするのでしょうか?

摂心会(せっしんえ 道場に合宿して行う坐禅の修行)では坐禅の他に、作務(さむ)と言いまして草抜きや掃除などを行うことを通じて定力を養う修行なども行います。

また日曜座禅会終了後には、お茶を飲みながらの座談もします。

禅とはどのようなものでしょうか?

禅は、長い東洋文化の伝統の中で磨き上げられてきた「人間形成の道」です。

 禅は、特定の信仰(何かを拝む等)・教義や所依の経典をもたず(※)、また、科学の原理に違背するようなもの(呪術的なもの、霊魂など)に心の支えを求めません。

 禅は、なぜ生きているのかより、むしろ「どのように生きるか」に注目し、行を重んじます。それは何かを学ぶことからは得られず、個人が自分に向かってその心の本体を明らめ、自分の心を自分の手に取り戻すことにより叶うことであるとされています。

それによって一人一人がかけがえのない自らの尊い命をかみしめ、ひいては正しく、楽しく、仲のよい世界の建設に向かって歩みを進めてゆく道につながります。

 さらに禅には、仏々祖々が苦心して伝えて来た珠玉の法財が秘められており、独立独歩の見性悟道の道はどこまでも味わい深い道です。

※)坐禅和讃(ざぜんわさん)や、 般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱えることはあります。

居士禅(こじぜん)とは何ですか?

居士とは非出家者、つまり在家の者のことをいいます。
在家ですから、実社会にあってはそれぞれの職業を持っています。

もちろん学生や、主婦の方も含まれます。出家者である専門の雲水修行者が、僧堂において雲水の立場から修行を行っているのに比べ、居士禅では、在家の人達が主体であるために、正式に僧籍を持つ者以上に社会に密着した姿で修行を行うことになります。

居士禅では、実社会の中にあってなおかつ純粋に自己確立を目指すことが求められ、それによって自分に安心を与えるとともに、修行によって悟り得た徳力を各自の領域、職域において自然に発露していくことで社会に貢献することが目標とされます。

坐禅道場と言うと、何か敷居の高いような気がするのですが?

確かに初めての方の中には、禁欲的で、俗世間から離れたイメージの方もおられるかもしれません。

しかし、人間禅道場は居士禅の専門道場としての長い伝統の中で、皆が学生生活・社会人生活を送りながら坐ってきた道場です。

確かに摂心会ともなれば厳しい雰囲気の中で行われます。しかし、とりあえずは毎週の日曜座禅会に参加されてはいかがでしょうか?

坐禅をやる意義とは何でしょう?
人間は考える生き物なので、「何故生きているんだろう?」とか、「深い部分で人と関わって行くにはどうすべきか」とか、「善悪とは?因果とは?何だろう」とか、「死んだらどうなるのか?」とか、色々と疑いが出てきます。

また、現在を生きているはずなのに、過去を想い、未来を想い、これらに囚われて身動きが取れなくなってしまうこともあります。

禅は、自分の中にこそ注目し、これらを自らの努力で解決し、主体的に「いま・ここ」を生きていくための修行です。これは単なる観念や信仰ではなく、自ら体得するものなのです。

主体的に「いま・ここ」を生きることができないと、他からの影響により色々なことで心が動き、惑わされてしまいます。

かの執権 北条時宗は、無学祖元国師の指導を受け、禅を修めながら国難を舵取りしたと伝えられています。

 

よく「無の境地」などと言われますが?

これはテレビや雑誌などでよく使われ、誤解をされがちですが、坐禅とは無念無想などという「ボンヤリ」を目指すものではありません。

前述のように「数息観(すうそくかん)」を行い、雑念を克服し、正念を取り戻そうというものです。

坐禅とは、具体的にはどんな事をするのですか?
正しい坐禅の体勢を作った後、数息観を行います。

数息観とは静かに自分の呼吸を勘定する修養の方法で、雑念を交えずにひたすら数息三昧(すうそくざんまい)になる事を目指します。

心に次から次へと沸き起こる雑念には誰もが手を焼きますが、ここで養い得た集中力・素直な心を以って日常生活を自分らしく、正しく、楽しく送っていくことを目指します。

詳しいやり方は道場に来て、「初めてです」と申し出て頂ければ指導させて頂きます。
また、このホームページの「坐禅の仕方」のページもご参照ください。

さらに修行を進める場合は、老師に参禅をすることもできます。

 

本名とは違う名前はなんですか?

この名前は道号と言って、仏道を修行する上での名前のことです。

人間禅では、入門したものが最初の公案を透った(とおった 合格の意味)時に、老師によって道号を授与する慣わしとなっています。

これを初関(しょかん)を透過(とうか)したと言い、見性したと言います。 

ここは宗教なんですか?
いい質問です(笑)。

人間禅は宗教法人法にもとづき、登録されているので法律的に宗教団体です。

しかし、やっていることは坐禅や茶道、剣道等、日本古来の道の修行が中心なので、一般常識的に言うところの宗教とはかなり違っています。

人間禅の禅は仏教には違いないのですが、神仏におすがりしたり、信仰したり、拝めばご利益があるような教えはありません。「立教の主旨」には、「我が教団は神秘を語らず迷信を説かず」とあるぐらいです(信仰を迷信と決めつけているわけではありませんので誤解なきよう)。

禅の法系は臨済宗 円覚寺派から引き継いでおりますが、会員制の道場であって、臨済宗の傘下にあるお寺ではありませんし、お坊さんがいるわけでも、お墓があるわけでもありません。

究極的には禅は宗教ではないと言われる方もいらっしゃいますが、こう言うと禅宗とは何か? そもそも宗教とは何か? 仏教は宗教なのか?そうではないのか? という大きな問題になってくるので、そこまで行くと簡単には答えられないものがあります。

言えることは禅を通して、仏教を学び、修行するのですが、その目的は人間形成の正しい道を歩むことです。
他力本願の宗教とはそこが大きく違うところです。

(おまけ)ここに入ると、お葬式とか人間禅でしないといけないのですか?という質問がありました。
お寺ではないのでお葬式はやっていません(会員が亡くなられた後の法要や、仏式の結婚式はあります)。

 

お寺の坐禅会と何が違うのですか?
まず出家した修行僧が修行するお寺との大きな違いは、人間禅が在家専門の禅道場であるということです。
一般の社会人や主婦、定年退職された方、学生さん等、普通の人(笑)が、本格的な禅の参禅の修業をしているのです。

出家した修行僧はプロのお坊さんとなり、お寺の住職になったりしますが、人間禅にはお寺はないので最後まで、その職業のまま一般の方です(笑)。

またお寺でも一般の人を集めて坐禅会をしているところは多いのですが、坐禅をやって法話を聞いて、お茶を飲んでそれで終わりとなります。一般の人が参禅修行(独参のこと)までできるところはほとんどありません(一部、一般の人でも参禅できるお寺があります)。

坐禅するだけでも身体が健康になったり、ストレスが解消したりといった効果があるので、そこまでのレベルで良い方はお寺の坐禅会でもかまいませんし、人間禅でも毎週やっている坐禅会(静坐会)に出てこられるだけの方は多いのです。

しかし、道を求めて、より本格的な禅の修業を志した時、人間禅にはその道が用意されています。

お寺の摂心会(せっしんえ)は一週間泊り込みでよほどのことがない限り出入り禁止になりますが(これも例外のお寺はあると思います)、人間禅の摂心会は仕事に行くことが認められている(托鉢しに行くと考える)等、一般の人に修行を続けられるシステムを持っていることが大きな違いだと言えるでしょう。

とは言え道場に皆とつめて泊り込む方が充実した摂心会になることは言うまでもありません。

 

摂心会には一般の人も参加できますか?

はい、一般の方も参加することができます。

もし老師に参禅する意思があれば、参禅願いを提出して参禅することもできます。

摂心会(せっしんえ)は人間禅の会員が、道場に泊り込んで禅の修業を行いますが、一般の方にも、どんな修行をしているのかを体験して頂くいい機会です。

仕事を持っている方は、朝は道場で起きて、参禅をし、行ってきまーすと仕事に行き、夜、ただいまーと道場に帰ってきて参禅をするという感じです。

一般の方の中にも泊り込んで修行される方もいらっしゃいます。

参禅修行とはなんですか?

曹洞宗では参禅と言うと、坐禅しに行くことを意味しますが、臨済宗においては参禅とは老師と1対1で禅問答を行うこと修行のことを指します。また独参ということもあります。

人間禅は臨済宗系なので、参禅修行は老師と1対1で禅問答を行います。

摂心会(せっしんえ)で参禅が行われますが、鐘をカーン、カーンと鳴らして修行者が廊下をダダッと走っていくのは老師に参禅をしているのです。

会員になっていない一般の方も「参禅願い」を提出して参禅を願い出ることができます。

参禅願いを提出した全員が老師に呼ばれて面談を行います。
その際、人間禅の歴史や禅の修業はどういうものかが説明され、最初の公案(これを初関(しょかん)と言う)が授けられます。

ここまでは参禅願いを出した全員ですが、ここから先は老師と1対1で指導を受けることになります。
参禅の作法を教えてもらってからは、一人で老師の待つ室内へ走っていきます。

ここで公案の見解(けんげ 答えのようなもの)を提して、老師に指導をあおぐわけですが、その際のやりとりや受けた指導は一切、秘密にすることになっております。

後に続く修行者の妨げになると考えられているからで、これ以上は書くことができません。

公案ってなんですか?

公案とは公文書の意であるが、禅ではいわゆる禅問答とも呼ばれる修行に使われる問題のようなものである。人間として誰にも共通な人生の根本問題。また、その問題に対する仏祖の真正の見解。絶対の真理そのものの境涯に到達する為に使うものです。

古来より1700以上あると言われていますがが、人間禅では、肝要な公案200則が集められ順序立てられて公開されています。

老師に参禅願いを提出して、参禅修行が始まると、最初の公案(これを初関(しょかん)と言う)を授かります。

ここで公案の見解(けんげ 答えのようなもの)を提して、老師に指導をあおぐわけですが、その際のやりとりや受けた指導は一切秘密にすることに注意してください。

後に続く修行者の妨げになると考えられているからで、これ以上は書くことができません。

初関(しょかん)を透過(とうか)すると、見性した印として、老師から道号を授かる慣わしです。

坐禅会(静座会)への参加を続けたら入門しなければならないのですか?

坐禅会(静坐会)や摂心会(せっしんえ 道場に泊り込んで坐禅する修行)などに積極的に参加して、本格的に修行を継続する意思があれば正式に老師に入門することを勧めます。

しかし、坐禅の修行は本来一生続けるものですので、気軽な気持ちで決めるべきものではありません。

当会は、それも踏まえて、他の宗教のように強引に入門を勧誘するようなことは決してありません。

毎週の坐禅会だけに出られている方も多いです。

会員になると、寄付やお布施を要求されたりするのでしょうか?

人間禅はお寺ではありませんので、経済的に支えてくれる檀家も、販売するお墓もありません。
各道場は、会員が毎月納める会費だけで運営されています。

寄付や喜捨等もお受けはしますが、決して強要することはありません。
寄付する額が多ければ地位が上がるような、新興宗教のような仕組みもありません。

会費の額は道場が必要とする運営経費と会員数、職業を持っているかどうかによって違ってきます。

注:坐禅会(静坐会)への参加費用は毎回300円だけです。
  会員の方でなくても参加できます。

会員と一般ではやることは同じですが、何が違うのですか?

一般の方でも会員にならないまま、摂心会に参加し、公案を授かり参禅している方もいらっしゃいます。

一見、やっていることは同じで会員と一般の違いがわかりにくいかと思います。

しかし、そこには大きな違いがあり、正式に老師に入門して会員になるということは、一生の決心、坐禅修行を志すという求道の精神、また、この会を経済的に支えて、護法の一員となる意義の大きさがあります。

何度も申し上げている通り、この会は会員の会費のみで運営されており、この仏祖より護持してきた法(仏法、悟り)を後世に伝える為、後に続くものを育てるという責任をになう者となります。

自分だけが悟ればいいというようなことでは本物の禅者とは言えず、自利とともに利他の修行も同時に行っていくことが求められます。

会員になると、今までのお客様という一般の人から、この法を守り伝えるという伝法の一員となり会を支え、初心者を導き、坐禅会を継続運営するスタッフ側に替わるのです。

これこそ、自利利他の修行と言えましょう。