人間禅について
はじめに
今の社会状況は目まぐるしく変化し、これまでには想像できなかったような天変地異に見舞われ、一寸先は分からないくらいに不明感が漂っています。そしてそのような世の移り変わりや出来事を伝える多くの情報の洪水の中で、私たちの日常は不安が募り、心のバランスをとり難い、どうも居心地の悪い世の中になってはいないでしょうか。
人は多くの場合、身の回りに起こること、心に感じられることを頭の中の知識で考え、自分の経験に照らして理解し、それを基にして自らの考え方を作り出します。
私たち〔人間禅〕は、そのような「今の自分」というものをいったん全て棚上げして、座布団の上に座り、自分の呼吸だけに精神を集中して、心の中に想起してくる色々な記憶や思いをその時間だけでも徹底的に排除する、その様な作業を毎日繰り返しています。それにより、日々の生活で失われがちな、人間としての本来の生き方を取り戻そうとしています。
私たちは、一般社会で生活しているいわゆる在家の人たちも「禅」の修行をすることにより「人間力」を養うことができるような場を得たいと願って集まってきています。そして、そこでは私たちは、自身で運営し、自分たちの分に添って修行し、夫々が自分磨きに日々励んでいます。
人間禅について
「禅」は、紀元前5世紀のお釈迦様から始まりその後6世紀の達磨大師の中国への伝来を経て、更に13世紀に我が国へもたらされました。「人間禅」は、今に至るまで脈々と受け継がれてきた「正脈の法」を受け継ぐことを許され、それを今日まで担っている「在家禅の会」の団体です。「在家」とは非出家者のことをいいます。
※ 人間禅の歴史につきましてはメニューの中の〔人間禅の歴史〕を参照して下さい。
人間禅では以下の6つの設立趣旨を掲げており、従来の伝統的な寺院における禅とは全く異なった新たな「禅」の道が開かれております。
1. 人間形成、即ち人づくりの禅会である。
2. 脱俗出家した僧侶を対象としたものではなく一般社会人(居士)を対象とした禅会であるが、禅修行の形はそのまま継承しつつ、そのなかにも「一般社会人を対象」とするための新しい特徴も兼ね備えている。修行の中核を担う師家は在家のままの居士が就任する。
3. 従来の僧堂にはない革新的な『立教の主旨』を制定し、公に宣布している。
4. 同じく、従来の僧堂では内部で口伝されてきた多数の公案の中からそれを厳選し、更に、境涯の浅深に沿って段階的に整理された「二百則」を『瓦筌集』として制定し、一般にも公開している。
5. 設立時の時代背景にあった戦後民主主義を組織の中にいち早く反映し、民主的な組織運営を徹底すべく新しい時代に則した規則・細則を制定している。
6. 法輪・法務と食輪・総務を明確に区分し、その運営に当たっての資源はその構成員の会費に依っている。
摂心会について
参禅弁道(坐禅)
本格的に禅の修行をするためには、古来から「正脈の師家」に参じることを求められていますが、そのことを「参禅弁道」といいます。
「摂心会」とは、本格の修行をするために一定期間、専門の道場に泊り込んで「参禅弁道」を積み重ねることです。これをすることにより、坐禅の修行の主眼である「自己の真面目」を自ら明らかにしていくことを目指します。
この「自己の真面目を自ら明らかにしていくこと」を「見性悟道」といいますが、これを達成するにはこの摂心会の場が最も相応しいといえます。
人間禅への入門と入会について
人間禅で修行するには「入門」して、その後正式に「会員」になることが必要です。会員は摂心会において参禅弁道をすることができます。
この「入門」をするには、人間禅のことを理解し、師家に対し「心からの信」をおくことや、入門して修行を始めるからには永続的に続ける自覚をもつこと、などが本人に求められ、更には、ある程度の経済的負担も伴うことも理解されることが必要です。
これらのことの前提として、入門の前に何回かの摂心会に新到者(初心者)として参加し、そこで正しい坐相を身に付け、数息観(「数息観」については後程説明いたします。)を実修することが望まれます。
これらを踏まえた上で、本人も心からの入門を希望し、又、師家からみても入門することが妥当であることが明らかになって、始めて「入門」が許されます。
沿革
人間禅は明治の初め、山岡鉄舟、高橋泥舟、鳥尾得庵、中江兆民等の先覚者が鎌倉円覚寺の管長今北洪川禅師を拝請し、一般の人々を対象として始めた修禅の会「両忘会」に源を発し、今日に及んでいます。
「人間禅」の名称は「人間形成の禅」を意味します。人間禅は旧来の封建的な体質を改め、なおかつ神秘や迷信を説かず、 各人がもっぱら禅の修行によって自己を鍛えあげ、人間として真実の味わい深い人生を生きることを目標としています。
明治時代に、今北洪川禅師の指導の下、奥宮慥斎らが中心となって洪川和尚の意を呈して設立された両忘会は「在家の人々の禅の修行の必要性」を説く在家主義を標榜し、時代が下って大正時代には、洪川和尚の法を継いだ釈宗演老師の門下、釈宗活老師が両忘禅協会へと発展させ、更には戦後、昭和から平成に至るまで、釈宗活老師門下の立田英山老師を初代の総裁とする「人間禅」へと受け継がれました。
※〔在家主義〕…禅寺等で修行をされる僧侶や雲水の方々を「出家者(或いは出家僧)」と呼び、我々一般社会で生活をし活動している人達を「在家者」と呼びます。 「在家主義」とは、この一般社会にあって禅の修行をしようとする人達に正規の禅の修行をさせようという試みです。
歴史
蒼龍窟今北洪川老師と「両忘会」の発足

蒼龍窟今北洪川老師(1816-1892)は、幕末・明治時代を代表する臨済宗の禅僧でありました。もと儒学者であり、藤沢東垓の門に入って儒学を学び私塾を開かれましたが、『禅門宝訓』を読んだことが機縁となり、出家の思い止めがたく、25歳で相国寺の大拙承演のもとで得度されました。
さらに、曹源寺の儀山和尚のもとに参じ、その印可を得られました。岩国の永興寺に住して、藩主のために『禅海一瀾』を著わし、後、鎌倉円覚寺の管長となり、寺内の雲水のみならず「世に人を得るためには寺院が門戸を閉ざしていてはならぬ」との考えから、広く一般大衆に対する禅の指導に力を注がれました。明治初頭の自由民権運動をリードした植木枝盛ら、当時の気鋭を門下から輩出している奥宮慥斎らの「両忘会」の活動を積極的に支援し、更には、その後の山岡鉄舟、高橋泥舟、鳥尾得庵、中江兆民、北条時敬らによる「両忘協会」にも老師自ら出向いて彼らの参禅を聞き、懇切な指導をしている。



楞迦窟釈宗演老師時代の「両忘会」、「禅」を世界に発信

楞迦窟釈宗演老師(1860-1919)は、明治・大正期の臨済宗の僧で、洪川老師の法嗣(正統な法を継いだ人)であります。禅道修行のかたわら慶應義塾で福澤諭吉に英語、洋学を学ばれました。
1887年、慶應義塾別科を卒業し、29歳の時に福澤諭吉や山岡鉄舟のすすめもあり、セイロン島とインド、中国等アジア各国に留学。その後円覚寺派管長を務め、明治26年、シカゴで開かれた万国宗教会議で禅(ZEN)についての講演を行い、欧米に禅を紹介されました。宗演老師は、建長寺派管長も併任され、鈴木大拙や夏目漱石も参禅するなど多くの在家の参禅者がおり、薫陶を受けたのでした。日本人の僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として、よく知られています。

両忘庵釈宗活老師と在家禅「両忘協会」の発足、そして全国に支部設立

両忘庵釈宗活老師(1871-1954)は、はじめ鎌倉円覚寺の今北洪川に参じ、石仏居士と号され、23歳で釈宗演につき得度(出家して僧や尼になること)されました。 明治35年に洪川老師の法嗣である釈宗演老師より大事了畢(臨済宗における全ての公案を透過すること)、両忘庵の庵号を授かり、宗演老師の命により、一事活動を停止していた「両忘協会」を再興し、東京谷中にて両忘協会を継承されました。
明治39年には渡米され、サンフランシスコのポスト街にて両忘会道場を開き、提唱参禅会を実施し、アメリカで禅をひろめられました。帰国後は大正4年に、日暮里駅の谷中墓地側に両忘協会のために、田中大綱居士が、居士専門の禅道場を建築して寄付され、それが「擇木(たくぼく)道場」と名付けられ、宗派に属さないわが国初めての居士禅の専門道場として全国に知られ、大正14年には「財団法人・両忘協会」の認可も受けて、社会教化団体のひとつとして居士禅を全国に広めるその中心的役割を担う道場に発展しました。
擇木道場は「両忘会」、「両忘協会(昭和15年に「両忘禅協会」に名称変更)」の本部道場として、若き日の平塚らいてう(慧薫禅子)をはじめ、後に人間禅総裁となった耕雲庵立田英山老大師、現在、ニューヨークを中心に活動している「アメリカ第一禅堂」の礎を築かれた曹渓庵佐々木指月老師、東京高等師範学校の倫理学教授、文部省教学官などを歴任し、幾多の学生たちを禅に導かれ、後年93歳まで毎夏ドイツへ坐禅指導の行脚に出られた長屋哲翁居士など、大正から昭和にかけて日本の禅界だけでなく外国でも活躍された多くの人材を輩出しており、現在も人間禅東京支部として活発に活動しております。

耕雲庵立田英山老師と「人間禅」、戦後に継承発展

耕雲庵立田英山老師(1893~1979)は、 第二高等学校時代に松島瑞巌寺の盤龍和尚に参禅し見性。東京帝国大学理学部時代は釈宗活老師に入門し、その後、大事了畢、耕雲庵の庵号を授かる。 中央大学予科教授、日本医科大学予科教授でもありました。
昭和24年に両忘禅協会は発展的に解散し、立田英山老師を総裁として「人間禅」となりました。戦後の民主主義にふさわしく、運営面も新たに会費制度や会規を定め、性別や社会的立場を超えて、誰にでも開かれた禅道場を作ろうという理想のもとに、立田英山老師の後、総裁は妙峰庵佐瀬孤唱老師(経営コンサルタント)、磨甎庵白田劫石老師(千葉大学名誉教授)、青嶂庵荒木古幹老師(精神科医)、葆光庵丸川春潭老師(中国 東北大学名誉教授)と受け継がれました。
【1】 第一世総裁 耕雲庵立田英山老大師
明治26年 | 東京市本所区に生まれる。 |
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39年 | 仙台第二高等学校入学。 |
45年 | 仙台・北山東昌寺の摂心会(松島・瑞巌寺 盤龍老師)に初めて参加。 |
大正3年 | 盤龍老師について見性 |
4年 | 東京帝国大学理学部動物学科入学。 |
5年 | 両忘庵釈宗活老師に相見し入門。「英山」の道号を授与される。 |
8年 | 東京帝国大学卒業。大学院に進み「脊椎動物の脳の発生」を研究。 |
9年 | 志願兵にて習志野野砲連隊に1年間入営。 |
10年 | 中央大学予科教授に就任。 |
12年 | 「耕雲庵」の庵号を授与される。 |
昭和3年 | 師家分上に補される。 |
9年 | 日本歯科大学教授に就任 |
15年 | 宗教結社「両忘禅協会」が発足しその代表者に就任。 |
16年 | 日本歯科大学教授を依願退職。 |
19年 | 中央大学予科教授を依願退職。 |
21年 | 宗教結社「両忘禅協会」と財団法人「両忘協会」を合併し宗教法人「両忘禅協会」が設立され、その主管者に就任。 |
24年 | 宗教法人「両忘禅協会」を戦後新たに宗教法人「人間禅教団」に改組し、推されて初代総裁に就任。 |
44年 | 総裁を妙峰庵佐瀬孤唱老師(第二世総裁)に委嘱され、名誉総裁となる。 |
50年 | 師家を辞任し、隠居される。 |
54年 | 帰寂。世寿85歳。 |
【2】第二世総裁 妙峰庵佐瀬孤唱老師
大正3年 | 台湾に生まれる。 |
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昭和11年 | 中央大学法学部英法科に入学。 |
12年 | 中央大学五葉会に入会。両忘庵釈宗活老師に入門を許される。 |
13年 | 「孤唱」の道号を授与される。 |
13年 | 中央大学卒業。南満州太興合名会社に入社。 |
15年 | 応召。 |
21年 | 中国より復員。戦後各社の役員を歴任の後、経営コンサルタントとして活躍。 |
24年 | 人間禅教団に入団。 |
35年 | 人間禅教団内に五葉塾を設立し、初代塾頭に就任。 |
40年 | 「妙峰庵」の庵号を授与される。 |
42年 | 師家分上に印可される。 |
44年 | 人間禅教団・第二世総裁に就任。 |
51年 | 帰寂。 |
【3】第三世総裁 磨甎庵白田劫石老師
大正4年 | 東京に生まれる。 |
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昭和7年 | 東京帝国大学 和辻哲郎教授の下で哲学を学ぶ。 |
10年 | 耕雲庵立田英山老師の公演を切っ掛けとして禅の修行を始める。 |
12年 | 耕雲庵立田英山老師に入門。 |
13年 | 帝大卒業後、文部省に入省。 |
15年 | 「劫石」の道号を授与される。 |
24年 |
新制千葉大学の発足と共に文学部助教授就任。 |
29年 | 「磨甎庵」の庵号を授与される。 |
47年 | 千葉大学・人文学部長に就任。 |
52年 | 人間禅教団・第三世総裁に就任。 |
56年 | 千葉大学定年退職と共に千葉大名誉教授に就任。 |
平成8年 | 人間禅総裁を退任し名誉総裁となる。 |
21年 | 帰寂。 |
【4】第四世総裁 青嶂庵荒木古幹老師
大正14年 | 岡山県倉敷市に生れる(旧姓「内藤」)。 |
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昭和18年 | 陸軍予科士官学校入学。 |
20年 | 熊本医科大学入学。 |
24年 | 人間禅教団熊本支部創立に参画、耕雲庵英山老大師に入門。 |
25年 | 熊本大学医学部卒業、精神科入局。 |
25年 | 「古幹」の道号授与される。 |
29年 | 熊本県立精神科病院勤務。 |
35年 | 医学博士。 |
36年 | 医療法人再生会内藤病院(精神神経科)を開設、理事長・院長となる。 |
39年 | 内藤病院増床(211床)。 |
49年 | 「青嶂庵」の庵号を授与される。社会福祉法人白日会を設立、理事長となる。 |
61年 | 熊本県精神病院協議会々長就任(後に名誉会長になる)。 |
平成8年 | 人間禅教団・第四世総裁就任。 |
10年 | 病院長を長男と交代、理事長専任となる。 |
10年 | 日本精神神経学会の精神科専門医認定。病院名変更「くまもと心療病院」に。 |
18年 | 総裁辞任、名誉総裁に就任。 |
19年 | 帰寂。 |
【5】第五世総裁 葆光庵丸川春潭老師
昭和15年 | 岡山県岡山市に生まれる。 |
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34年 | 耕雲庵立田英山老師に入門。 |
35年 | 「春潭」の道号授与される。 |
38年 | 大阪大学理学部化学科卒業。住友金属工業株式会社和歌山製作所入社。 |
57年 | 東北大学工学部工学博士。 |
63年 | 坂東支部設立。支部長就任。 |
平成4年 | 住友金属工業株式会社 総合技術研究所上席研究主幹。 |
5年 | 「葆光庵」の庵号を授与される。 |
8年 | (中国)北京大学客座教授。 (中国)鋼鉄研究総院技術顧問。 |
9年 | 日本鉄鋼協会理事。 |
10年 | (中国)東北大学名誉教授。 |
17年 | 師家分上印可授与。 |
18年 | 人間禅教団・第五世総裁就任。 |
令和元年 | 総裁辞任、名誉総裁に就任。 |
【6】第六世総裁 千鈞庵佐瀬霞山老師
昭和24年 | 北海道夕張に生まれる。3歳で千葉県松戸市に移住。 |
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31年 | 人間禅付属宏道会で剣道を始め、小川忠太郎師範(無得庵小川刀耕老居士、 剣道模範士九段、警視庁名誉師範)に師事。 |
39年 | 妙峰庵孤唱老師に入門。 |
44年 | 「霞山」の道号授与される。 |
46年 | 流通経済大学経済学部卒業。 |
47年 | 株式会社平田倉庫に勤務後、木場の材木問屋株式会社京守に勤務。 |
55年 | 株式会社岸本建設を設立、常務取締役に就任。建設業に携わる。 |
平成14年 | 宏道会第四代会長に就任。 |
17年 | 宏道会長野拓郎師範(寶鏡庵長野善光老師)より小野派一刀流免許皆伝を 允許、師範に就任。 |
18年 | 人間禅総務長に就任。 |
20年 | 「千鈞庵」の庵号を授与される。 |
23年 | 師家分上印可授与。 |
24年 | 一般社団法人耕雲塾(KUJ)代表理事に就任。 |
令和元年 | 人間禅第六世総裁に就任。現在に至る。 |